吉田 兼好(よしだ けんこう)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。治部少輔・卜部兼顕の子。本名は卜部 兼好(うらべ かねよし/うらべ の かねよし)。卜部氏の嫡流は兼好より後の時代に吉田家と称するようになり、江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになった。また出家したことから兼好法師(けんこうほうし)あるいは単に兼好(けんこう)とも呼ばれ、中学校国語の検定済み教科書では「兼好法師」と表記される。日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者。私家集に『兼好法師家集』。
通説では、
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建武二年(1335)、内裏千首和歌に参加。 徒然草の作者として名高い。自撰家集『兼好法師集』がある。続千載集初出。勅撰入集は計十八首。 『兼好法師集』 岩波文庫、私家集大成5、新編国歌大観4、新日本 …
百科事典マイペディア - 吉田兼好の用語解説 - 鎌倉・南北朝期の歌人,随筆家。俗名卜部兼好(うらべかねよし)。卜部氏は神官の家。京都吉田に住み,吉田とも称した。下級公家の出で,30歳ごろ出家。二条為世に和歌を学び,《続千載集》以下の勅撰集に入集。
^ 小川剛生「卜部兼好伝批判-[兼好法師]から[吉田兼好]へ」『国語国文学研究』49号(熊本大学文学部、2014年) ^ 小川剛生 訳注『徒然草』(kadokawa【角川ソフィア文庫】、2015年)「解説」 ^ 亀田 2015, 栄光と没落>高師直の信仰と教養>和歌.
吉田兼好吉田兼好は「徒然草」の作者和歌は、沓冠に「よねたまへ、ぜにもほし」とあり、「米給へ、銭も欲し」と生活が逼迫した様子が窺える歌を詠んだその歌はよもすずし ねざめのかりほ た枕もま袖も秋に へだてなきかぜ現代語なら夜も涼しく目が覚めた仮の住まいで腕枕も
余談ですが、吉田兼好は和歌の才にも秀でた人でした。『花は盛りに』から始まる『徒然草』第137段には、「花は満開の時のみを、月は雲がない状態の時のみを見るものではない。
吉田兼好もまた、貨幣経済の世の中に揉まれて生きる一人でした。吉田兼好は、当時和歌四天王とよばれた頓阿にとある一首を送ります。 夜もすずし 寝覚めのかりほ 手まくらも 真袖の秋に 隔て無き風
吉田兼好 出家、隠棲後、二条派の歌人としての活動が顕著に 随筆『徒然草』で知られる吉田兼好は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した歌人・随筆家だ。後宇多上皇には北面の武士として仕え、厚遇を得たが、上皇の崩御後、30歳で出家した。
· 吉田兼好よしだけんこうとは、部屋に籠もって『徒然草』ばかり書いていたでしょうか? 説教が好きなカタブツ出家者だったのでしょうか? どんな人物だったのか、学校の古典の授業とは少しちがった角度から見てみましょう。 吉田兼好はどんな人? 吉田兼好 年表 吉田兼好の多彩な才能と ...
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